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世界で最も売れた車フォルクスワーゲンビートル(タイプ1)の誕生秘話

世界で最も売れた大衆車のフォルクスワーゲンビートル(タイプ1)にはあまり知られていない誕生の歴史があります。今回はそのフォルクスワーゲンビートルの誕生秘話について紹介します

フォルクスワーゲンとは

フォルクスワーゲン(ドイツ語: Volkswagen AG )は、ドイツのニーダーザクセン州ヴォルフスブルクに本社を置く自動車メーカー。傘下の企業を合わせてフォルクスワーゲングループを構成する。
フォルクスワーゲンは1937年設立となっているが、旧フォルクスワーゲン製造会社は第二次世界大戦前にナチス政権の国策企業として設立され、会社としては第二次世界大戦終戦後のイギリス軍管理下で改組されたもので、工場と製品設計のみを継承したかたちとなっている。現在では世界119ヶ所に工場を持つ。社名はドイツ語で「国民車」を意味する。

フォルクスワーゲンビートルの誕生秘話

世界で最も売れた車として知られているフォルクスワーゲンビートルですが、その人気の訳には様々な背景がありました。自動車設計士ポルシェの高性能小型大衆車の構想と1933年にドイツ首相に就任したナチ党党首ヒトラーの大衆政策によってつくられたのがビートルです。

1930年代のドイツの道路交通網はアメリカなどと比べてかなり遅れていました。都市や町、村同士の道路が異なる設計基準で作られ、それぞれの技術レベルも異なっていたことが原因でした。当時、自動車はかなり高価だったためドイツ人の自動車保有台数も他の国々に比べて少なかったです。そこでヒトラーは交通網の近代化として「アウトバーン建設構想」と当時高価だった車を国民全員が所有できるようにする構想を打ち出しました。

ビートルに課された厳しい条件

国民車の設計を依頼された人物がポルシェ博士です。国民車の設計条件としてポルシェ博士に課されたのは以下の条件でした。・民衆が容易に買える値段であること (当時の1000マルク以下)・標準的な家族である大人2人と子供3人が乗車可能で・7Lの燃料で100kmの走行が可能である(=1Lあたりの燃費が14.3km以上である)こと・コストが安い空冷式エンジンであること・頑丈で維持費がかからず、たとえ壊れても修理が容易なこと当時、これだけの条件を満たすことは大変難しく、ポルシェ博士は並大抵でない努力を強いられました。

ポルシェ博士によってビートルは量産間近まで迫っていた。しかし、ヒトラーによる第二次世界大戦の参戦によりビートルの工場は空襲に遭ってしまい生産ができなくなってしまった。

ついにフォルクスワーゲンビートル誕生

戦後、英国軍将校 アイヴァン・ハーストはドイツ人の協力的な態度とフォルクスワーゲン車の内容に将来性を感じ、手段を尽くして工場を修復しビートルは日の目を見る事となった。

ビートルはすでに生産が終了していますが、1938年から2003年まで半世紀以上も生産が続き、2152万9464台という生産台数は伝説として残っています。日本の2013年の自動車国内生産台数は約963万台のため、そのすごさはいわずもがなでしょう。

世界一売れた車ビートルにはこんなストーリーがあったんですね。

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